平成も腐女子だったわ

日々腐り、日々考えるOL

これは一つの信仰のお話です


第1回目の安室透への賛美から1カ月以上経過したのになにもハッピーダイアリーに書くことがなくて焦燥感が募っていたのだが、この度お仕事で好成績をあげさせていただいたので今年度初の有給をドヤ顔でとらせていただいた。有給は労働者の権利だから好成績でなくても取得していいんですけど、内なる社畜の魂が遠慮していた。いや遠慮せずに取れやという話なんすけど。


というわけで、有給最高。それ自体がハッピー。


Twitterで日々労働に対する罵詈雑言を吐き散らかしているタイプの人間なので、当たり前のように毎日働くだけで疲弊していく。就職前になんか大学の就活サポートセンターみたいなとこで診断したけど、私はストレス耐性が3%らしい。濡れた和紙みたいにストレスに弱い人間が働くなんて緩やかな自殺だと思う。


そんなウェットティッシュみたいに脆い人間が、有象無象かつ百鬼夜行かつ奇々怪界な社会で生き抜くにはなにが必要か皆さんはお分かりだろうか?



10秒考えてほしい。とても簡単なので。




はい。10秒経ちましたかね。


経ちましたよね?



で、答えなんですが、「希望」です。


ありきたりな話だが、辛い人生にも希望があるから前を向けるわけだ。PSPでプレイ可のゲーム『ダンガンロンパ』で主人公の苗木くんも言っているが、希望は前に進む。


で、希望ってなんだって話なんですけど、これは人それぞれだ。


会社で聞いたら「音楽!ライブに行くことで活力を得てる」と答える同僚もいましたし、「子どものためにって仕事を頑張れてる」と答える同僚もいました。


もちろん、1つしかないわけではない。たくさんある人もいる。それがあるから生きていける、それがあるから踏ん張れる、そういうエネルギーをくれる「希望」は人によってはいくらでもある人もいる。


わたしにとっても、「希望」は1つではない。アニメは毎週観てたいし、漫画も続きを読みたいし、ゲームは毎日やりたいし、小説は書くのも読むのも大好きだ。そういうコンテンツがわたしを支えてくれている。もちろん、家族や友人等もわたしを生かしてくれる「希望」である。


そしてなにより「推し」がいる。


はい、前置きが長かったが、今回は推しの話がしたかった。


「推し」とは、はてなキーワードによると「自分が支持したり愛好したり信仰したりする対象を指す」らしい。


とても正しい。


現在最も私の心の中の多くを占領している推しは、刀剣乱舞の山姥切国広なのだが、まさにこの推しの説明が的確で、わたしは刀の付喪神的存在の刀剣男士である山姥切国広に並々ならぬ信仰心を抱いている。


あまりに山姥切国広への気持ちが強すぎて腐女子としての自分との葛藤もあり、山姥切国広受けをみかんば、つるんば、くりんば、燭んば等、一通り読んだ末に山姥切国広×山姥切国広が最も自分の理想なのだという結論に達した人間だ。


よって、わたしはBL大好き歴人生の半分以上の根っからの腐女子なのに、山姥切国広でBLを書いていない。これはわりと友人達からも驚かれる。


一応、山姥切国広に出会う前にも推し的な存在はいた。わたしは携帯獣、つまりポケのモンが好きなわけだが、山姥切国広に出会う前はBW版モブトレーナーのてつどういんに激ハマリしていた。てつどういん箱推しで、彼らの名前とわずかしかないセリフと手持ちとてつどういんという職業だけで日々妄想して生きていた。なんならBLさえ書いた。


そんな私が山姥切国広でBLを書いていないのはよほどらしいのだ。BLとしてみかんばとか大好きだし今でも読む。けれど、私は山姥切国広という存在が好きで、BLを抜いても彼が大好きなのだ。


山姥切国広。綺麗な見た目のキャラクターだが、常に布を被り顔を隠していて、山姥切という刀の「写し」である自分に自信がない。綺麗と言われても、それは自分を通した山姥切への賛辞だとでも思うのか、「綺麗って言うな」と拒絶する。なのに、国広の最高傑作だといきなり自信に満ち溢れた発言もする。つまり情緒がジェンガしている。


アニメの活撃刀剣乱舞では第一部隊隊長という最高に絶妙なポジションにいて、戦闘シーンでは美しくもかっこいい姿を見せてくれた。花丸でもダンシングフラワーと戯れる天然じみたかわいい行動で私を癒してくれた。舞台でもおはぎの宴等我々の思い出に残る台詞を残してくれた。


とにかく山姥切国広が好きなのだ。なんでかはわからん。


アゲハ蝶ってあるじゃないですか。ポルノグラフィティの。「貴方に会えた それだけで良かった 世界に光が満ちた」。まさにそれ。


つまり山姥切国広は光。


会社で挨拶を無視する嫌な同僚がいても、「顕現したばかりで人見知りから挨拶を無視するタイプの山姥切国広」と心を和ませ、会社で理不尽なキレ芸を披露するお局を見ても「初期刀で古参だからみんなの世話しなくちゃいけなくてキレやすい山姥切国広」と気持ちを落ち着かせる。


世界を山姥切国広フィルターに通すことで幸福感に満たされるライフハック。誰も傷つかず、誰にも迷惑にならないのでつらいことがあったら最近は全部山姥切国広に変換するようにしている。意外にもそんなことでストレス耐性3%の人間でも人並みの社会人生活がなんとなる。


そんな私の神様である山姥切国広なんですが、次に「極」(※艦これで言う改二)がくる刀剣男士のため、いま現在私の情緒がジェンガです。


審神者LOVEみたいな態度とりだしたらどうしたら……。布がとれたらどうしたら……。いや、いいのだ。どんな山姥切国広になろうとも受け止められる。


問題なのは、そんな風に山姥切国広が変化した「過程」なのだ。彼がなぜそう変化したかをきちんとゲーム内で描写してくれるなら。それなら、私は大丈夫なのだ。私の神様である山姥切国広もまた、前に進んだのだと納得できるので。


なんの話がしたかったお分かりにならなかった方もいるかもしれませんが、この日記は推しの話だとか働くのが嫌いだとかの話の皮を被った「山姥切国広の極実装前の審神者の情緒が不安定な様を実況した記録」です。


これが信仰心がぐらついた人間の心情だ。オラに元気をわけてくれ……。




安室透という素敵な隕石


腐女子のハッピーダイアリーとして記念すべき第1回目の記事なのだが、本来なら推し概念の話とかオススメBL漫画記事をあげるべきかもしれない。が、申し訳ございません。


このたび劇場版 名探偵コナン ゼロの執行人を観たのでその話をしたい。


簡潔に言おう。




めっちゃやばかった。




最近流行りの言葉・やばたにえんが脳内を駆け巡る。ただでさえひどい語彙力がさらに低下していく感覚に襲われた。いや、襲われている。現在進行形である。本当にひどい。


安室透。Twitterでよく彼を描いたファンアートを見かけていたので存在は知っていた。彼がどういった経歴の持ち主で、彼の声帯が誰かも知ってはいた。だが、彼が画面で動いて喋る様子は実は見たことはなかった。


しかも、白状するがコナンを観たのも十数年ぶりだ。コナンがなぜ少年の姿なのか、灰原哀は何者なのか、蘭姉ちゃんとコナンの関係、そういった基礎知識だけは知っているが、安室のことはTwitterで見るまで知らなかった。


なぜ劇場版を観に行く気になったかと言うと、単純なことで「こんなにいいぞと言う人を見かけるのだからいいのだろう。流行ってるし観に行くか」といった理由である。深い意味はない。


そもそも安室のことをほとんど知らないのに楽しめるのかは謎だったのだが、まあ劇場版なのだから最初に人物紹介が入るだろうと想像して大丈夫だろうと判断した。実際簡単に説明が入ったので大丈夫だった。


さて、ネタバレは控えるべきだろうと思うので、ここからはわたしがどのような感情を安室透に抱いたかを語ろうと思うのだが、それすらネタバレになる人はこの先は読まないでほしい。



まあ、ほんとにひどい語彙力で安室について述べていくだけなんですけど。



安室透。やつはとんでもなかった。彼に抱いた初めての感想は「顔がいい」である。実はこのよく耳にする感想をわたしはキャラクターに使用したことはほとんどない、というか記憶だけだと一度もないし、使っていたとしたらたぶん刀剣乱舞の山姥切国広に対してだと思うのだが、本当にそう思った。顔が、いい。


彼の表情一つ一つが胸を貫くほどツボなのだ。時にかわいく、時にかっこよく、すべてが目に入る度に思わず口を手で押さえていた。いやほんとにねえ、かっこよかった…………。


特にラスト10分はずっとかっこいいが頭を巡っていた。お気づきだろうが既にこの段階でわたしは所謂「安室の女」状態になっていた。ならないわけがなかった。見えている罠にわたしは走って行ったようなものだった。


観る前は安室透にそこまでの強い感情はなかった。観てなにかが変わるとも予想していなかった。想定していなかった衝撃をうけたのだ。もう言い方は悪いが事故だ。隕石が落ちた的な。でもね、それがね、全然嫌じゃないんですよ皆さん……。


映画館を出てわたしが思ったのは「この国で頑張って生きよう」である。オタクは単純である。いやわたしが単純なのである。仕事で嫌な目に合うことも、残業で疲れることも、ゼロの執行人を観たおかげで乗り越えられる。毎日を生きているということは、安室と同じ国で生きているということなのだ。それは言葉にできないくらい素晴らしいことだ。



安室さん、本当にありがとう。あなたのおかげでこれからも生きていく。



わたしは今回の体験でわかったことがある。いいぞという感想が目について気になる映画があれば、それは観に行くべきなのだ。コナンなんてもう何年も観てないしなとか、知識ないしなとかそんな言い訳をしてないで観るべきだった。そんな後悔を感じる映画は今までたくさんあった。キンプリとかな。


だから今回は軽い気持ちで観に行った。それがこんな素晴らしい出会いをくれるなんて予想していなかった。


人生はそんな素敵な事故でいっぱいなのだ。そこに飛び込むかスルーするかをわたしは選ばなければいけない。わたしはスルーを選び過ぎる傾向が強いので反省しよう。それに気づかせてくれた安室さんに感謝したい。


すぐ流行りに飛びつくのはな……なんて変な意地をはってはいけないのだ。



これからは素直になる。



だからわたしは明日、劇場版 名探偵コナン 純黒の悪夢を観ます。










ブログを始めた理由

ブログを始めた。

始めた理由は明確にはなくて、しいて言うなら頭空っぽでハッピーな日記つけたいなあ的な軽い動機である。

で、タイトルのこと。

平成の時代に生まれて早20年以上経っているが、正直平成でなくなる日のことを想像したことは一度もない。いつまでもどこまでも平成である気がしていた。

年号部分を省略して「H」と表記するのが当たり前だし、自己紹介で「平成生まれです」と言えば「若〜い」と会社の先輩に反応される。そういうのがずっと続く人生であるような気分でいた。

それがそろそろ平成も終わるかもしれないときた。募る焦燥感。平成生まれよりもナウでヤングな世代が生まれてしまう危機感。いや、ていうか現段階でも幼稚園児とかから見たらわたしは十分おばさんだ。しかもよく考えたら、わたしの同級生には平成30年生まれの子どもがいる人もいる。ひえっ……。

わたしってもうそんなに長い時間生きてきたのか。時代を1つ生き抜く感じになっちゃうのか。なんか、ここまでの日々、めっちゃあっという間に過ぎてしまったな。

毎日アニメ見てゲームして漫画読んでミュージカル行って、楽しくも忙しくもある日々が、さーっと過ぎていく。社会人になったらあっという間で、気づけばこの平成って時代が終わるっていうところまで駆け抜けてしまった。

そういうわけで毎日を駆け抜けてしまうのがもったいないので、こんなに楽しかったことが猛スピードで背後に消えていかないように記録しておこうと思い至ったというわけである。せめて、平成が終わるまで。


そして、仕事がつらかろうが彼氏と別れようが、そういうしんどい日常を送っていながら、なんでわたしが毎日生きていけてるのかってそれは簡単なことで、腐女子だからだ。

腐女子でもつらいよ!って人もいるだろうし、どうでもいいよ腐女子なんか!って人もいるだろうが、わたしが「わたしを楽しくさせている原因」と考える理由はそれなのだ。


とりあえずわたしの場合は、そう。これだけ覚えてほしい。重要だから。


腐女子となって10年以上経つ。最早腐女子でなくなる日なんてものは来ない気がする。なので、わたしはこれから先の人生も腐女子として生きていくのであろう。

だから、このまま平成を腐女子として駆けていくと思う。そして次の年号も腐女子として駆け抜けていくのだ。たぶん。


というわけで、平成も腐女子だったわと言えるような毎日を過ごしたいという考えのタイトルである。

いや、嘘です。そんなこと1ミリも思ってない。ただ楽しかったことを日記にしていくだけなので、つまりこれは夏休みの日記的なあれなのです。